21世紀の仏教入門第3章

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更新日 2011-11-06 | 作成日 2007-09-17

〈私〉はだれ?

その1 失われた〈私〉を探して

 今年の年明け、朝日新聞が特集した「ロストジェネレーション」は、バブル崩壊以後のいわゆる〈失われた10年〉を成長期とした青年たちを取り上げていますが、1月9日には「愛国世代」と銘打って、〈右肩上がりの日本〉の「神話」が崩れていく過程に〈大人〉になり、特攻隊員の遺書が「暗黒の青春」の〈道しるべ〉となった青年たちを紹介しています。

 総合研究大学院大学に通う杉浦学さん(29)は、有事の際に後方任務を担う予備自衛官になるため、横須賀市の陸上自衛隊武山駐屯地近くの屋内射撃場で、予備自衛官補の実射訓練中だ。

 東大の修士課程を経て、02年に重工メーカーに就職したが、しばらくして業績が悪化した。もっと技術を磨ける環境を求め、丸4年勤めた会社を退職した。杉浦さんが「大人」になる過程は、日本の「神話」が崩れていく過程と重なる。中学1年の時、バブルが崩壊し、失われた10年が始まった。高専の2年生だった95年1月、阪神大震災が起きた。ボランティアで神戸市に入ると、つぶれかかった百貨店や半壊した家屋など、見たことのない惨状が広がっていた。3月の地下鉄サリン事件では、知人が通勤する路線が標的になった。安定も安全も、泡のように壊れていった。

 「脅威がこんなに身近にあるのに、会社も政治も信頼できない。それでも日本という国は確かにあって、私たちはそこで暮らしている」

 気がつけば日本が、身近で、守るべき、愛すべき存在になっていた。  (朝日新聞07・1・9)

 〈日本という国は確かにあって〉それを守るために銃を執るという〈短絡〉は〈喪失感〉と結びついているようです。

 62年前のことになりますが、45年8月の敗戦は、〈日本人〉にとってそれまで〈確か〉だとされていた一切の価値観の崩壊でした。「現人神」のマインドコントロールから目覚めたとき、〈現人神神話〉を支えていた一切の宗教も崩壊したのです。真宗の教えも同じです。

 宗教が無用になったのではありません。むしろ、創価学会に見られるように、宗教活動が旺盛に展開された時代だったといえるでしょう。しかし、〈人間にとって確かなものは何か〉という根源的問いを持つことのないまま、戦後の日本社会は〈余慶〉の産物であった民主主義と〈非軍事〉による平和を謳歌し、経済的発展を進めてきたように思われます。

 ところが、〈ジャパン アズ ナンバーワン〉といわれた経済にかげりが差し、失速の後に訪れた〈失われた10年〉の中で、次々と明るみに出た政界・官界・財界の不始末への憤懣と不況の中での閉塞感は、〈精神的頽廃〉となってこの国に住む私たちを、理由の見えない不安感に押し込んでいます。何か〈確かなもの〉が欲しいという〈精神的飢餓感〉は「こころの時代」という言葉を生み出し、〈自分探し〉が流行し


ています。「愛国世代」はこのような世情を反映しているように見えます。

 それにしても、「日本という国は確かにあって、私たちはそこで暮らしている」という杉浦さんが、銃をとって守ろうとしている〈日本という国〉とは何でしょう。

 その2 自分探しの旅

 〈自分探し〉が流行語から常識語になっています。Eーネットで〈自分探し〉を検索すると、ずいぶん多くのサイトが見つかります。

 岩手真宗会館が「自分探しの旅に出よう」をテーマに、盛岡市大通の丸十ビル(鈴木敬造氏の無償提供)で「市民仏教セミナー」を開始したのは93年1月のことでした。なぜこれをテーマに選んだか、すっかり忘れてしまいましたが、90年をピークにして土地の価格が急落し、地価を担保にして成り立っていた日本経済が生き詰まって、先行き不透明に陥ったころにあたります。後に〈失われた10年〉と呼ばれる時代の幕開けの頃です。

 〈土地転がし〉と〈宗教団体〉の脱税をパロディにした伊丹十三監督の「マルサの女2」が発表されたのは88年のことです。〈土地〉というこの動かしようのないものが高騰して、ゴールドラッシュさながらの悲喜劇がこの国を覆い、やがて潰えていくという、人間の歴史がこれまで繰り返してきたことを再現して見せたに過ぎなかった時代状況のなかに、身を置くことを余儀なくされた人々の中から、〈自分探し〉ということが言われ出したように思われます。

 この言葉を使い始めた頃、語感の中に新たなものを感じていたのですが、じつはすでに民芸運動の陶芸家・河井寛次郎さんにこの言葉があったのです。

 此世は自分をさがしに来たところ
 此世は自分を見に来たところ

 〈此世〉とは、今私たちが生きている「世間」つまり〈歴史的社会〉です。当然のことですが、そこに住んできた人々の喜怒哀楽が感情の澱となって長い間にわたってつもり続け、沼の底の泥のようにどろどろのままたまっている、その上に〈いま〉という時代社会が形成されています。そういう時代状況の中で、〈自分を探す〉というのはどういうことなのでしょうか。

 その3 共同体への帰属意識

 今日、〈自分探し〉は〈アイデンティティ〉という言葉によって語られるようになりました。アメリカの心理学者、H・エリクソンは、青年期の心理として、それまで親などをモデルにしてきた自我が崩れ自己不信に陥りながら、その危機を克服して〈自我同一性〉を達成する課題をかかえるといいましたが、一般語としての〈アイデンティティ〉は、「I・Dカード」や「I・Dパスワード」など〈自分であることの証明〉。〈私〉を「私」たらしめ、一貫性を与えているものへの意識や、自己のよって立つところのもの。社会によって承認され、認識される〈身元〉。共同体(地域・組織・集団など)への帰属意識など、広がりをもって使われているようです。

 ところで、今日、私たちは〈北朝鮮危機〉を〈危機感〉として共有していますが、このような〈危機感〉は、〈共同体への帰属意識〉が色濃く反映しているように感じます。やっかいなのは、私たちの〈共同体意識〉が、虚構された〈民族感情〉を根底にして、法的強制装置の鎧をまとった〈国家〉を形成しているということです。

 地震のような、なかなか予測できない自然災害とは違い、〈歴史的社会〉では、〈ある時突然〉というようなことはめったに起こりえないものです。必ず〈予兆〉が在るわけですが、政治はしばしば、国家の〈一体感〉を創り出すために、事件を〈危機〉として利用してきました。真珠湾の攻撃でも、アメリカは察知していたといわれています。

 私たちはこういう〈歴史的社会〉に生まれてきたのです。「日本」という〈国土〉に生活している人々は、先住者の〈アイヌ人〉はいうまでもなく、近代日本の大陸侵攻のさなか、旧植民地の〈朝鮮半島〉や〈台湾〉から渡来してこの国に住むことになった方々がいらっしゃるわけです。その方々にも〈民族感情〉がありましょう。この〈民族感情〉がいつのまにか個々人の〈アイデンティティ〉に重なってしまっているものですから、個人と民族、国家が堂々巡りすることになります。もし、「日本」という〈国家〉が、「単一民族の国」という〈幻想〉の上に成り立っているとしたら、その方々にとって、〈この国を生きる〉ということは心地よいものではないでしょう。

その4,今、〈宗教〉に求められているもの

 チマチョゴリを来た真宗の僧侶、ユ・ヨンジャさんの話を聞く機会がありました。外国人登録証の指紋押捺拒否闘争を生きてきた在日コリアンの彼女は、「親鸞聖人の教えに出会い、私は初めてコリアンとしてこの国を生きていける根拠を得た」と語りました。

 岩手真宗会館は、会館開設周年にあたる01年と翌02年の報恩講の講師としてユ・ヨンジャさん(写真下)をお招きしましたが、講話は〈日本人〉のエートス(「ある民族や社会集団にゆきわたっている道徳的な習慣・雰囲気」広辞苑)に対する、かなり激しい批難を含むものでした。聞きながら私は、「親鸞」を〈日本人〉の枠内でしか見ていなかったことに気づかされ、同時に、私にとって大きな宗教課題となりました。


 私は今、このことを思いながら、姜尚中(カン・サンジュン)さんの『反ナショナリズム』(講談社+α文庫)を読んでいます。この本を読むまで、私の中には日本の中の〈植民地人〉という観念はありませんでした。

 このことは、私に、経典に表れる「十方衆生」という言葉のもつ意味合いの広さについての問い直しを迫ることになりました。親鸞は、「〈十方衆生〉というは十方のよろずの衆生なり、即ち我等なり。」(尊号真像銘文)と言っています。「十方衆生とは私のこと」ということでしょうか。ですが、〈十方衆生〉と〈私〉は簡単には結び付きそうにありません。

 このような出会いを通して思われるのは、〈他人の痛みに無自覚〉であった〈私〉ということでした。〈私〉という者の〈アイデンティティ〉は、この国を生きる中でいつの間にか培われた〈日本人〉という〈民族の感情〉と分かちがたくなっています。ユ・ヨンジャさんの話を聞いて、ある〈辛さ〉を感じたのは、きっとそういうことなのです。探し求めていた〈自分〉は、〈民族感情〉と一つではありませんでした。

 杉浦さんの、国を守ろうという意志は、このような〈民族感情〉に裏打ちされたものかどうかわかりませんが、私の体験で言えば、〈民族感情〉は無意識の底に沈殿しているようなもので、言語や習慣を同じくするというそれだけのことで共感するという、実にささやかな体験に基づくもののようです。

 「民族宗教」というのは、そのような〈民族感情〉を基盤して成り立っているのだろうかと思いますが、今、求められる〈宗教〉は、〈民族感情〉に根ざすものであってはならないように思われます。


 その5 赤肉団(しやくにくだん)上の真人(しんにん)

 このところ、秋川雅史さんの歌う新井満さんの訳詞・作曲の「千の風になって」をよく耳にするようになりました。

 私のお墓の前で 泣かないでください
 そこに私はいません 
 眠ってなんかいません
 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹きわたっています

で始まるこの詩の原詩である『A THOUSAND WINDS』は作者不詳だといいます。

 イギリスでは、95年にBBCによって、IRAのテロの犠牲者となった青年が、自分が死んだ時に開封するよう両親に託した手紙に残されていた詩として紹介され、アメリカでは同時多発テロの追悼式で、11歳の少女が、テロで亡くなった父親を偲びこの詩を朗読してそれぞれ大きな反響を呼び起こしました。

 この話題性が〈不詳〉の作者探しに向い、ネイティヴ・アメリカン、北アイルランドのケルト民族の伝承詩に由来するなどの憶測を生んでいます。おそらく、この詩の底流に〈精霊信仰〉のかおりを感ずるからでしょうか。日本の文化の〈基底〉にもこれがあります。

 私たちは、生まれ落ちたところに伝えられた文化の影響を強く受けながら育ってきました。死生観や思考方法もまた同じです。しかし、だからといって、生まれ落ちた社会〈世間〉が私ではないのです。同じような肌の色を持ち、同じ言語で語り話し、似たような思考方法を持っているとしても、それが〈私〉のすべてではないのです。文化を共有するとは言いえ、そこを生きるひとり一人には〈感じ方〉の違いがあるでしょうし、当然、感覚や感情にも〈個性〉があるでしょう。歎異抄には、「一生のあいだ、思いと思うこと、みな生死の絆にあらざることなし」とありますが、抱えた歴史や関係(世間)の中に〈身〉を置きながらでも、ひとり一人の〈身〉を生きるのだろうと思います。ある時には〈世間〉に反発したり、妥協したりしながら…。

 私はだれ? という問いが発生するのは、じつはこういう関係性の中でのことなのです。その関係性が〈日本という国〉だとすれば、〈日本という国〉に身を置きながら、反発したり妥協したりして生きている〈わが身〉が問われているのです。〈日本という国〉と一体化するなどということは、虚構以外の何ものでもないのですから…。

 『臨済録』に、「赤肉団上に,一無位(むい)の真人有り」という有名な言葉があり、また道元の『永平広録』には、「眼横鼻直(げんおうびちょく)なることを認得して人に瞞かれず、すなわち空手(くうしゅ)にして郷に還る」とありますが、名誉とか利益とか、余計なものがはぎ取られた〈赤裸々〉な〈わが身〉を発見することから、すべてが始まることを示唆しているようです。